吉田松陰―維新を切り開く思想とその後継者たち 池田諭 (著) #69
admin 著者の略歴不明。
明治維新の精神的指導者・理論者として知られる吉田松陰について書かれたのが本書。
本書の内容は、吉田松陰とその周辺人物にスポットライトを当てたかたちで、きれいにまとまっている。
吉田松陰は1830年9月20日に生まれ、1859年11月21日、江戸の伝馬町牢屋敷にて斬刑になるまで、たった30年の人生、30歳までの人生だった。明治維新の精神的指導者との知名度、影響力から見れば、意外なほど短い人生だったといえる。
彼の人生を要約すれば、非常にシンプルにまとめることができる。
1830年・萩にて生まれる
1840年・藩校明倫館の兵学教授となる
1850年・九州へ遊学(西遊日記)
1851年・江戸へ遊学(東遊日記)
1851年・東北へ(東征稿)
1853年・江戸へ(十ヵ年間諸国遊学)
1853年・プチャーチンのロシア軍艦乗り込み失敗
1954年・ペリー船乗り込み失敗
1854年・萩、野山獄へ
1855年・松下村塾にて、多くの人材に指導する
1859年・江戸送致、江戸伝馬町の獄において斬首刑
現代人の目から見れば、そこまで多くの場所を移動していないように見える。しかし、当時の日本人は、藩外への移動が関所によって制限されていたこともあり、実際には、ありえないほどの移動をしているものと思われる。
各所を遊学し、多くの人と出会い、多くの書物を読みふけるうちに、日本の未来に対する思想を磨き、多くの人に伝えていったというわけだ。
松下村塾の門下生で、明治時代まで生きることができ、新政府の大物となった人物には、伊藤博文(初代総理大臣)や山縣有朋(内閣総理大臣2回)らがいる。
吉田松陰の行動力を示す上で、大きなものといえば、1853年(嘉永6年)にプチャーチンのロシア軍艦乗り込み、1854年(安政元年)にペリー船乗り込み失敗、1858年(安政5年)に老中の間部詮勝の暗殺を計画したことがある。
よく考えてみれば、とんでもない行動力である。
ロシア軍艦乗り込み失敗についてみれば、結局、ロシア軍艦がすでにいなくなってしまっていたことから、実行前段階だといえる。
しかし、ペリー船乗り込みは、実際に小舟で船に乗り込み、その後、追い返されてしまったという経緯がある。
当時の日本で、海外渡航は死罪レベルである状況で、この行動。
また、老中・間部詮勝の暗殺については、藩の上層部を含めた周囲に申し出していたそう。
公然と幕府の重要人物の暗殺案をしゃべっているその度胸というか、行動力というか、アグレッシブさは素晴らしいものがある。
それらの行動力も、非常に重要な意味を持っていたのだろう。
たった30年あまりの生涯で、社会に大きな影響を与えた人物の生涯。
参考にしたいものだ。
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