「私がどんな経緯で今に至ったのか。 私がどんな思いで生きているのか。少しでも、あなたと共有できれば、うれしいです。」

1981年11月27日金曜日。
福岡の北九州市の八幡という街で、僕は生まれました。

そこは、父方の祖父が住んでいる街で、1901年に始まった有名な八幡製鉄所が、すぐ見える場所にありました。
新日鉄の城下町だった、この場所で、祖父は、特別、新日鉄とは直接関わりがありませんでした。 今で言えば、起業家でした。

メインは、大家業でしたが、様々なことをしていたそうです。
若い頃、戦争から帰ってきて、無一文から、はい上がった苦労人でした。
そんな環境で育った父は、そこそこ裕福な子供で、苦労知らずのボンボンでした。

母は、北九州市の戸畑という場所で、生まれました。
いたって普通の家庭で、平凡と言えば平凡な育ち方をしていました。

そんな二人は、おじの紹介で出会い、結婚しました。
僕らは、まだ小さいとき、福岡市の都心から外れた片田舎に引っ越したのです。
竹内正浩の子供時代
平坦な道があるのに、近道だからという理由で、
毎日軽い丘越えをしなければならない、近くにある小学校に、平凡に入学しました。
何も考えていない、ただ漠然とすぎていくような、小学生時代をすごしていました。

"父親が・・・"


小学3年生の、肌寒くなった11月18日。

何も考えていなかった、少年の僕は、
いつものように、いつもと変わらない日常を送り、
いつもとかわりなく眠りにつきました。

物音で目を覚ますまで・・・

それは、いつもと違う雰囲気でした。
父と母以外の人が、何人かいるようでした。

ドタバタとしている母に、僕はこう聞きました。

「どうしたの?」

母は、言いました。

お父さんが、死んだのよ・・・

昨日と今日の間には、とても大きな違いがありました。
僕をかかえて、遊んでくれたり、頭をなでてくれたりした父は、永い眠りについていたのです。

子供の僕は、それが何を意味しているのかも、わからなかったし、
それが僕の人生や家族の人生を、根本から変えてしまうような出来事だとは、考えもしませんでした。
小学生なんて、その程度のものでしょう。
世の中のことは、何も知らないし、大人も「教えても、子供はまだわからない」と、教えてくれないものでしょう。

父がいない。

それは、どうしようと変わらない現実。


"いつもと変わらない日々とその裏にある真実"


僕には、いつもの生活が待っていました。
元々ぜいたくをしていたわけでもないから、別に不自由もしないし、本当に普通でした。

近くの公立中学校に進学し、福岡中央高校という、公立の高校に進学しました。
そして、家から通えるたったひとつの国立大学である、九州大学に入学したのです。

何も変わっていないと、ずっと思っていたし、たぶん普通の人たちが送るような、普通の学校生活を送っていました。

ただ、それは母が演出していただけだったのです・・・

父は、生前、ボンボン特有の甘さと、祖父ゆずりの起業家精神から、事業を始めていました。
典型的なパパママ・ストア、家族商店レベルのもので、なんとか食べていける程度のものでした。

良かったことは、パパママ・ストアのレベルとはいえ、稼ぎがあったこと。
一般的な母子家庭では、職をパートなどにしか求めることができず、
生活するのに十分な稼ぎを得ることが難しいのです。
悪かったことは、、、

多額の借金をしていたことです。

借金の時期は、バブル崩壊の時期に、ピッタリ一致しています。
もちろん、いきなり金利も下がるものではなく、とても高い金利で、返済額もかなりのものでした。

保険。

そう、普通の人は、生命保険をかけているものでしょう。

ただ、父は、保険をかけていなかったのです。

それは、すなわち母が、その借金のすべてを背負うことを意味していました。
僕は、大学に入るくらいの頃まで、そのことを、まったく知りませんでした。
知られないように、母がしていたからでした。

そもそも、一般的な家庭では、
父親がいくら稼ぎ、いくら貯金し、いくら借金していて、いくら使っているのかを、
子供たちは知っているものなのでしょうか。

母は、苦労していました。
病気にならないかぎり、元日以外は、休みなし。
父が死んでから、旅行、というものは、学校で行くもの以外は、したことがありませんでした。
借金が多額で、金利も高く、返済額も相当なものに加え、
バブル崩壊の不況へと続く道の上で、母は、大変な思いをしていました。

毎日、毎日、朝から晩まで、雨の日でも、雪の日でも、1日12時間以上、労働を続けました。
いそいで買い物に出かけ、朝、昼、晩は、食事の用意。
毎日違う、献立を考え、掃除をし、洗濯をしていました。
母は、車の免許を持っておらず、移動に苦労するため、
免許を取るために、目の回るような忙しさのなか、自動車学校にも通っていました。
それでも、稼ぎの多くを、借金返済にあてていました。

"僕の人生が、変わる瞬間"


大学に入った頃だったろうか、母は言いました。

あなたに、苦労を見せたくなかったから・・・

僕は、心のなかで、血を吐きそうなくらい、さけんでいました。
けれど、何も言えませんでした。
それを当時知っていたところで、僕は何もできなかったから。

僕は、何か助けることも、一緒に前進していくための力も、知識もなかったのだから。
僕は、くやしかった。
うつむいたまま、全身の力をこめて、歯をくいしばりながら、泣いていました。
自分の無力さ、大切な母を助けられなかった自分の情けなさ、
そしてもう二度と同じ思いはさせまい、と心に誓いながら。

サークルに入ったり、合コンを楽しんだり、ワイワイ騒いだり、と大学生活を、毎日楽しむ。
それが、大学生の醍醐味だし、人生でこの時期ほど、人生をエンジョイできる時期はない、といいます。

僕は、それをすべて犠牲にした。

理由は、カンタンです。
僕は、もう二度と母に、そして僕の人生に関わる人たちに、
あのときと同じようなつらさを、させないことを誓ったから。


僕は、幸運だったのでしょう。
家から通学できる、たったひとつの国立大学に入れたのに加え、
国立大学は一番学費がかからずに済みました。

もちろん、通学は、自転車です。
六本松キャンパスまで、1年半通いました。
それは、近くですみました。

箱崎キャンパスに、2年半通いました。
片道1時間を、自転車で毎日往復していました。
冬、手がブルブルふるえるほどの寒さでも、着いたときには、汗をかいていました。

そして、母の苦労を知る前に、僕は本に出会っていました。
だから、僕は、本のチカラを知っていました。
それから、僕は、本の虫になっていました。
毎日、毎日、本を読みました。
講義中も、講義が終わっても。
もちろん、休日も。

"株式投資との出会い"


そんななか、株は、大もうけができる、といった漠然としたイメージからでしょうか。
僕の住んでいる、福岡の薬院駅という駅の下の書店で、一冊の株の投資本を手に取りました。

その投資本は、今思えば別にとりたてて、何かためになることが書いているわけでもない、初心者向けの本でした。
それを一度、読んだだけで、「株で大儲けだ!」と株取引を始め、期待にワクワク胸を躍らせていました。

それからすぐ、腹を立てて、不機嫌な毎日が始まりました。
くる日もくる日も上手くいかず、ぶつけようのない怒りと、
わずかに残っている「自分は間違っていない」という根拠の無い自信の行き来を繰り返していました。

さらに時間が経つと、さらに状況は悪くなり、毎日、株のことが頭から離れず、
損失のために強い不安と恐怖でヒザがガタガタとふるえだしました。
注射のように一時の痛みではありません。
売るまで続く、絶え間ない恐怖なのです。

なぜ、こうなったのか。
実は、そのころ真っ最中だったITバブルの崩壊に巻き込まれていたのです。

なぜ、こうなってしまったのか。
それは、当時の私は、「自分は、本当は何も知らない」ということがわかっていなかったからです。

「もう損するのは嫌だ!」
そんな気持ちから、手に入るだけの本や資料、セミナー、ビデオを買いあさり、
寝る間も惜しんで必死に研究しました。

努力の甲斐あってか、利益が出ました。
「やった。やっぱり努力した成果だ!」
嬉しすぎてついその辺をピョンピョンと小躍りしてしまいました。

実は、浮かれている私の背後にはひっそりと現実という冷たい影があったのです。
損失・・・
結局、利益が出たのは努力の成果ではなく、
ただの偶然だったと知ることになるのです。

それを知ったとき、「努力したのになんで・・・」
ガックリと力が抜け、情けなさと、みじめさで涙に暮れる日を送りました。

"アメリカの本との出会い、そしてほんの小さな成功"


それから、ずいぶん経ったあるとき、科学的で具体的なアメリカのトレード法が紹介されている、
あるトレード本に出会い、その本にあったやりかたを学びました。

はじめは上手くいきません。
しかし、そのやり方を学べるだけ、学んでいったある時、その手法の意味がわかりました。

「やっぱりこのやり方で間違ってなかったんだ!」
身も心も縮こまるほど寒く、長い夜に暖かな一筋の光が射し込みました。

それは、夜明けの光だったのです。
2003年、有り金をはたいて本格的にはじめ、
がんばって2004年、少々のお金をつくることができました。

トレードは、楽に儲かるものだ、というイメージですが、
現実は違って、とても厳しく、困難なビジネスなのです。

そのなかで、僕は、お金を稼ぐ方法を学びました。
このまま続けていても、それなりに成功していたでしょう。

ただ、何か違和感を感じていたのです。
もちろん、僕は、このビジネスが好きだったし、
稼いでいたし、ずっと続けていこうと思っていました・・・

"苦悩と出会い"


だが、ずっとあの思いが、僕の頭にこびり付いて、離れなかったのです。

母は、元々ビジネスには向いていなかったし、ビジネス書も読んでいませんでした。
ただ苦労しながら、お金を稼いでいただけなのです。

その当時の母を助ける力が、今の僕にはあるのか?
もう二度と、くり返さずにすむのか?

僕は、何度も頭を抱えながら悩んでいました。

その間も、僕は、ものすごい量の本を読んでいました。
1日12時間以上、読んでいたこともあったし、3ヵ月で200冊を読むペースでした。

そんなとき、ダイレクト・レスポンス・マーケティングの本に出会ったのです。
すでに1000冊以上の本を読んでいた僕は、すぐに気付きました。
このマーケティング法は、違う。
これは、低コストで、効率的に売上を上げる、素晴らしい方法だ、と。 竹内正浩とたくさんの本たち

僕は、確信しました。
これを身に付ければ、もうあの思いにイラ立ちを感じず、
無力さから開放され、本当の力を手に入れることができる、と。


それから、僕は、日本、海外を問わず、
マーケティングの本、教材、セミナーで学びました。

日本のマーケティングに大きな影響を与えた、神田昌典氏、
実践して、成功している平秀信氏、
海外では、有名なジェイ・エイブラハム氏など。

そして、アメリカのカリスマ・マーケターである、ダン・ケネディ。
気付くと、読んだ本、教材は、山のようになっていました。

"ダン・ケネディとの出会い"


ダン・ケネディとの出会いは、「The Ultimate Sales Letter」でした。

Amazon.comで購入し、何日か後のこと。
届いてすぐ、読んでみました。
ものすごいクオリティの高さ、ものすごい内容の濃さ、読み終わって気付きました。

「この本は、ビジネスや人生を変えるくらいの力を秘めている」と。
そのすごさから、他の著書もすべて買い、読みました。

このダン・ケネディという人物は、すべての本において、
最高レベルのクオリティを持っているとわかったのです。

そして僕は、ダン・ケネディのメンバーシップ、Glazer-Kennedy Inner Circleに入り、
ニュースレターを読み、教材を買いました。

言葉が出ませんでした。
言いようのない、ワクワク感。
行動したくてムズムズする感覚。
思わずさけびました。

これは、スゴすぎる!

じゃあ日本で、展開しているのか?
調べてみると、著書でさえ、一冊以外は、翻訳すらされていませんでした。
僕は、思いました。

これを日本に伝えることは、僕が感じた無力感、イラ立ち、後悔、くやしさを、
他の人たちが、くり返さないですむようにできる、すばらしいことなのではないか、と。


僕は、トレードを学んでいたとき、アメリカの本や教材に、大きな影響を受けていました。
業界では有名な、P社の翻訳本は、とても素晴らしく、非常にお世話になっていました。
あれがなければ、僕は、今、何をしているのか、想像もつかないくらいなのです。
今、僕は、あの会社と同じように、以前の僕のような人を、応援することができるのです。

そうして、僕は、ダン・ケネディにアプローチすることを決意しました。

"アメリカで独占販売権のライセンスを取得する"


ダン・ケネディにアプローチして、彼の持っている情報やツールなどのコンテンツを
日本で展開するためのライセンス権を手に入れることを決意した僕は、アプローチを始めました。

最初にアプローチしたのは、一番カンタンにアプローチすることができるEメールです。
ドキドキしながら送った、最初のメールは、当然、音沙汰なし。
無視されました

当然でしょう。
どこの誰とも知らない人間からのアプローチですから、そう簡単に反応はないでしょう。

それからも、何度かメール、FAX、手紙でアプローチを繰り返しました。
しかし、依然としてアメリカ側からの反応はありませんでした

僕は、悩みました。
「このようなやり方でいいんだろうか?」

そう思っていると、ダン・ケネディのウェブサイトに、イベントの開催を知らせる案内が書かれていました。
「これだと、直接会うことができる!」
そう思った僕は、すぐにそのイベントに参加を申し込み、アメリカに行くことを決めました。

イベントの時期が来て、実際にアメリカに行ってみると、当然、周りはアメリカ人ばかりで、 英語もあまりうまいとはいえない僕は、とても臆病になってしまい、おどおどしていました。

しかし、この場で直接アプローチしないことには、話は進みません。
そこで、僕は内心ドキドキしながら、 ダン・ケネディとビル・グレーザー(ダン・ケネディのマネジャーのような人)につたない英語でアプローチしました。

「日本で、あなたのコンテンツを展開したいのですが、ご興味はありますか?」 ダン・ケネディと竹内正浩

短いようで、長い沈黙の後、答えが返ってきました。

「あるよ。」

「えっ!」
僕は、そう心のなかで声を上げ、笑顔で話しを続けました。

その後、色々とメールでやりとりしながら、もちろん、いくつかのトラブルも乗り越えながら、 アメリカの経営コンサルタント、ダン・ケネディの情報・ツールの日本における 独占販売権であるライセンスを取得することができ、彼らが僕に、日本での展開を任せてくれたのです。

"日本での展開と新たな旅立ち"


2006年末から2007年にかけて、僕は必死で翻訳作業をして、ダン・ケネディのノウハウを販売しました。
文章としては一行足らずですが、それはとても大変なことでした。

英語の文章を日本語に翻訳するということは、非常にコストのかかる作業であるのに加え、 内容がとても専門的な内容ですから、よりわかりやすく、伝わりやすいように修正しなければならないのです。 正直に言って、それだけでも、寝る間もないほどの忙しさでした。

問題は、それだけではありません。
裏側でなされている、それらの翻訳作業だけでなく、 売上を上げるための販促活動をしなければならないのです。

広告のための文章を書いたり、 販促のための企画を考えたり、広告を出稿したり、集客のための仕組みを考えたりと、とても忙しい毎日を過ごしていました。

それは、たくさんの経営者の方たちに、ダン・ケネディの価値あるコンテンツを伝えるため。 その努力の甲斐あってか、僕はとても短い期間でたくさんの人に伝えることができ、 多くの人たちにダン・ケネディのことを知ってもらうことができました。

しかし、その裏では、さまざまな気持ちを持ったことも事実でした。
僕個人としては、長期的にダン・ケネディをじっくりと日本に伝えることを非常に意義深いことだと感じていました。

また、ずっと継続してダン・ケネディを代理して、伝えられればと思っていました。 ダン・ケネディの著書も3冊同時に翻訳・出版され、教材やコンテンツも、 まだまだほんの少ししか提供できていなかったので、なおさらです。ただ、ここで、たくさんの事情が生じたことも事実でした。

そのなかには、さまざまなことがありますが、一番大きな事情としては、僕自身の経営者としての適性があります。

これまで、いくつかのビジネスをやりましたが、それらはすべて自分一人ですべてを処理できる範囲のビジネスでした。 しかし、今回の事業は、アメリカの相手先の意向もあるため、今後、大きな事業へと拡大していかなければなりませんでした。

にもかかわらず、僕はリーダーシップに欠けていたのです。

色々なことを知っているだけではなく、行動しなければならない。
行動しなければならないけれども、自分だけで行うには、限界がある。


それが現実です。

たとえば、一日中、セールス活動をしていては、顧客に商品を納入することはできません。 一方で、商品の納入や問い合わせの対応などを一日中していては、セールス活動がおろそかになり、売上は上がらないのです。

そのため、企業を経営するには、リーダーシップが必要となってくるのですが、 自分はリーダーというよりも、参謀タイプであって、人を使うということができないタイプだと気付いたのです。

自分自身に何かが欠けている、という事実に直面して、それを受け入れることは、とてもつらいことです。 なぜなら、「自分は、無能な部分がある。」ということを意味しているからです。 しかし、このままリーダーシップに欠ける僕が経営をしていても、素晴らしい未来を描くことはできないと感じていました。

また、複雑でここでは詳細を書くことはできませんが、さまざまな事情から、より多くの方に知ってもらうことができ、 より多くの方に素晴らしい情報・体験を提供することのできる決断をおこない、会社を譲渡することになったのです。

躊躇は、少しはありました。せっかく単身渡米し、苦労して交渉することで、アメリカとライセンス契約をして、 日本に持ってきたので、思い入れがあったからです。

しかし、それらの思い入れに縛られてしまうと、ベストな選択肢をとることができないとも思っていましたので、振り切ることができました。

ある人から見れば、「もったいない」とか「なぜ?」とか「続けていれば・・・」とか思われるのかもしれません。

しかし、続けることで、事業が拡大して、大きなことになったとしても、それが自分自身の人生にとっては、おそらく不幸になるのだと気付いたからです。 その延長線上で、このまま行っても、自分が幸せにはならないと気付いたのです。

"27年間抱き続けてきた『恐怖』と『トラウマ』を拭い去る旅"


これまで、色々な経験をしてきました。痛い思い、つらい思い、眠れない日々。

そのおかげで、今後、自分がどのような人生を送ることがベストなのかについてわかったことが多くありました。
そして、それらの経験は、すべて自分の人生にとって、大いにプラスになったと思っています。

また、そうして転びながら、自分自身について、もっと知ることになるのです・・・

それから少しの時間が経った、あるとき、頭をめぐらせていました。

「僕はこれまでなんで、こういう人生を歩んできたのだろう?」
「なんで、これほどまでに『成功』とか『ビジネス』に興味があるのだろう?」

何度も何度も同じ問いを繰り返していると、だんだんと、ようやくその答えが見つかりました。

それは、大きな『トラウマ』があったからです。

最初のほうにお話したように、僕が小学3年生のある日、突然に父が亡くなりました。
それはとても大きな恐怖が生まれることを意味していました。

もし、母がケガしたら?
もし、母が病気になったら?
もし、母が万一、死んだりしたら?

僕はどうなる???
親戚にたらいまわしにされたり、ひどい扱いを受けるであろうことは子供の僕でさえ、明らかに理解できていました。
だからこそ、怖かったんです。

もちろん、そこから抜け出す方法や解決策も知りません。
誰も教えてはくれなかったのです。

そういう恐怖を常に感じながら過ごしていた時を経て、成人しました。
けれども、そのときに感じた恐怖、『トラウマ』は消えずにいたのです。

つまり、『成功』や『ビジネス』に強い興味があって、 『何があっても、自力で稼ぐ人になる方法』を知りたかったのは、 その『トラウマ』を消すためで、今もって消えない恐怖心を拭い去りたかったからだったのです。

だから、僕は2009年・2010年と約2年間(実質調査期間は1年半くらいです)をかけて、 30代で年収3000万円を実現した人300人を調査してきました

もちろん、これらの調査・研究は片手間ではできませんから、ほぼ収入ゼロという状況で1年半もの時間をフルに使って調査してきました。 当然、お金の面でも費用がかかっています。 調査も無料でできるわけではありませんから、生活費以外に、数百万円を移動費、宿泊費、手土産代、お茶代など含めて取材費として費やしてきました。

また、じっくりとインタビューする「定性調査」、つまりは取材調査もしてきました。 その際、「30代で年収3000万円を実現した人」は、そんじょそこらにポンポンといるわけではないので、 時には、たったひとりを取材するのに、片道二時間、往復四時間かけていったこともありました。 時には、せっかくアポがとれても、後からお断りやキャンセルの連絡がきて、ガクッとくることもありました。 また、時には、非協力的な方もいました。ずっと説教されることもありましたし、こちらの問いかけを無視されることもありました。

そういうことがありながらも、「何があっても、自力で稼ぐ人になる方法」について、徹底的に追求し、 一冊の本にまとめました。 30代で年収3000万円を実現した300人に聞いた!稼げる人、稼げない人

それが 『30代で年収3000万円を実現した300人に聞いた!稼げる人、稼げない人』(東洋経済新報社)です。 これは僕の2年間とお金と労力をかけてつくった大切な本です。

"僕が、している意味"


僕は、必死で前に進もうと、もがいていた。
あんな思いを、もう二度とくり返さないために。

今、この瞬間も、前に進もうと、必死にがんばっている人がいます。

ある人は、家族のため。
ある人は、夢のため。
ある人は、豊かな人生のため。
ある人は、会社のため。
また、ある人は、社員の生活や周りの人たち、すべてのため。

あなたもそうでしょう?

僕は、そんなあなたのように、必死に前に進もうと頑張っている人と一緒に、 目標や理想を達成したいと思っています。

あなたと出会えることを、楽しみにしています!

竹内正浩

竹内正浩
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